捨てきれなかった未練
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暗い道だった。私は目を凝らしつつ、薄暗い街灯のほかには明かりのない狭い道を、右に曲がり、左に曲がった。異国の街というのは、何故こうも現実味を欠いているものなのだろうか。国境という見えない線で区切られただけの土地が、訪れてみればまるで異世界のように現実味を失う。それを楽しみに見知らぬ土地へ出掛けるものなのかもしれないが、今の私には異国情緒などを感じて楽しむ余裕はなかった。
頻発した大規模な地震と、温暖化による海面上昇、さらに疲弊した土地を年に何度も襲う台風によって、この五十年で日本という小さな島国は国土をその二分の一にまで落とした。人口はかつての三分の一にも満たなくなり、元々自国での資源を持たない日本は国土全体が絶望のどん底に突き落とされる。他の国々も日本はもう立ち直ることはできまい、と考えた四十年前。日本は古い財閥という体制を復活させ、目を見張る勢いで再び息を吹き返したのだ。
私もその頃のことは良く覚えている。今でも残る三つの大きな財閥のうち、製薬に一番力を入れていた財閥関係者と仕事柄一緒に話をしたことがあったからだ。その時、そうだ。その時に私はあの骨董品を手にした。その中身と共に。
あれから何年過ぎただろう。私の手元に残るのは、無くさないようにと選んだ適当な皮紐で結ばれた兎の彫り物だけ。私はその片割れを求めて、こうして暗い路地を進んでいる。やがて見えた明かりは、営業中と分かる店のそれであり、私は迷うことなくその店に足を踏み入れた。外に出ていた看板の文字は読めない。私は母国語とフランス語は扱えるが、漢字は全く分からないのだ。
「いらっしゃいませ」
店に入ってすぐ聞こえたのは理解できない日本語ではなく、理解できる英語だった。喫茶店を兼業しているとあらかじめ聞いていたので、カウンター奥からの声にも私は戸惑わなかった。入ってきてすぐに私の容姿を見止めたのだろう。私からもカウンターに立つ店員の姿が見えたのだから、それくらいの芸当は出来て不思議ではなかった。
「アメリカンを」
私はとりあえずカウンター席に腰掛けて、店に一人きりしかいない店員に声をかけた。
「かしこまりました」
優雅に頭を下げたその人物は、確かに深緑色のキモノと呼ばれる古い日本の衣服を身に着けていたけれど、その顔貌は私の知っている日本人と大分違っているように思えた。だが私のような西洋人の顔とも違う。天使という生物が本当にいたとすれば、このような顔になるのだろうかと思えるほど、整った顔立ちをしていた。
「君がこの店の?」
尋ねると珈琲を入れる手を止めてにこりと微笑む。
「えぇ、店主です」
聞いていた通り、とても若く、そして人形のように美しい店主だった。
私はすでにカナダとロシアでそれぞれ二軒ずつ骨董品店を訪ねていた。だがそれら四軒では私の求めていた品は見つからず、見つかりそうな場所を紹介してもらおうにも、四人の店主のうち三人が私の言葉を解さなかったのだ。かろうじて私の言葉を聴き取ったロシアの店主が、日本にあるこの店を教えてくれた。その店ならば私のような客に対しても良く対応してくれるだろうし、何より求めているものが“壊れてしまった”ものであれば、普通の骨董品店よりもその店の方が扱っているだろう、と。
「ここに私が探しているインロウがないかと思ってやって来たのだが」
店の名前は確か“Ryukado”だと教わった。どういう字で表現されるのかまでは、そのロシアの店主も知らなかったが、おそらく店先に出ていた看板に書かれた文字をそう読むのだろう。
「お話は聞いております。日本の貴人が描かれた印籠ということでしたが」
「ないだろうか。この……ネツケと呼ばれるストラップとセットになっていたものなのだが」
私は背広の内ポケットから小さな兎の彫り物を出して見せた。多少磨り減ってはいるけれど、親指の爪ほどの大きさで、素材は象牙であると聞いていた。店主はその兎の彫り物を見て、何か納得したように頷いてみせた。
「ございますよ。すぐにお持ちいたしましょう」
言って入れたてのアメリカンを私の前に置くと、カウンターを右に移動して、そのまま奥へ消えてしまった。私は求めていたものが見つかるかもしれないという興奮を抑えるために、珈琲を口にした。入れたての珈琲は熱いような気がしたけれど、実のところは良く分からなかった。
冷まそうと思っても、土台無理な話なのだ。一体何年ぶりの興奮だろうか。店主が奥から何かを両手に置いて戻ってきた姿が、私にはとても眩しく見えた。
「どうぞ」
差し出された細い手の上には、羅紗の布に置かれた黒と金銀の小さな筒。初めてあの印籠を、いや、あの印籠の中身を手にした時、あの時の興奮が蘇るようだった。
「あぁ……! これだ。これを探していた。このインロウを……」
羅紗の布から奪うようにしてそれを手にした私は、すぐに印籠の中身を確かめてみたい衝動に襲われたが、にこやかに見つめる店主の目にあって、苦しくその衝動を抑え込んだ。
「印籠と言っても間違いではありませんが、正確には薬籠というべきでしょうね。薬を入れる籠で、ヤクロウ」
“Yakurou”。私は繰り返して呟いた。これを私に売った男は、そんな呼び方はしていなかったように思うし、これが薬を入れるためのものだということも、説明してくれなかったはずだが。
「この店に来たときはすでに緒締がなく、三段がそれぞればらばらに売られていました。それを集めて、蒔絵部分を少しお直ししたのです」
店主は説明しながら、その薬籠と呼ばれる本体を、左右に通された紐を緩めてばらばらにしてみせた。そして艶のある黒い本体部分を指でなぞり、修復したという“Makie”部分を私に示した。
「根付は因幡の白兎。そして薬籠には蒲と大国主命の蒔絵。薬を入れるには丁度良いモチーフですね」
根付と薬籠、両方を指し示し、店主は一人納得したように頷いた。けれど私にはどうして兎と、金で描かれた植物と、銀で描かれた男性が薬と関係しているのか全く理解できなかった。
「兎とこの男性は何か関係があったのか?」
正直に私が疑問を呈すると、店主は意外そうな顔をして首を傾げた。
「ご存知ではなかった? 古事記という書物が伝える日本の神話です」
そして店主は日本で因幡の白兎として知られていたという、オオナムヂと皮を剥がれた兎の話を簡単に教えてくれた。薬を入れる薬籠には、オオナムヂ、後の大国主命を銀の蒔絵で。そして彼が兎に教えた蒲を金の蒔絵で表現し、助けられた兎は象牙細工の根付として緒締の先に付属される。この中身と一緒に肌身離さず持っていた頃にも、そんな由来を調べてみようとは思わなかった。私は大国主という神とは違って、困っている人間に良薬を施そうなどとは思っていなかったのだ。
「中に入っていたのは冶葛ですね」
次に何気なく店主が言った言葉は、やはり私には理解できなかった。中に入っていたもののことを言ったように思うが、"Yakatsu"という日本名だったのだろうか、あの植物は。
「Gelsemium elegans Benth」
私が理解しなかったことを察したらしい。店主は滑らかな発音で言い添えた。今度は聞き間違えようもない。
「……あぁ、そう聞いていた」
冶葛。原植物はフジウツギ科の胡蔓藤であり、全草にアルカロイド系の猛毒物質を含んでいて、特に水を含むと死が早まる水溶性のものであると言われている。他にも野葛、胡蔓草の呼び名があるが、と店主は続けた。
「奈良の正倉院に収められていた冶葛は、記録によれば756年に7.14kg。856年には607gまで減り、その後行方知れずに。結局同じ正倉院で烏薬之属(うやくのぞく)という全く違う名前で分類されていることが分かった時には390g程度に減っていたとか。いつ、誰が、誰に対して使ったのかは分かりませんが、暗殺に使われたのだという説はまことしやかに流れていたようですね」
昔のことなど私は知らない。けれど私の知っている確かなことがある。私はそれを、人を殺すために手に入れたのだ。私の妻と幼い娘を殺した憎い男に、いつでも復讐できるように、美しい骨董品をいつも身につけていた。その中身と共に。
「この中の物も、その一部だったと君は言いたいのか?」
「その可能性もありましたね、というだけのことですよ。貴方は結局薬籠の中身を捨てておしまいになった」
そこまで知っているのか、と私は息を吐いた。ただ壊れた骨董品を直すだけで、この店主はどこからどこまでを知ることができるのだろうか。問い質してみたい気もしたけれど、それを知っても私はこれからどうすることもできない。私が考えることができるのは、ただ過去のことだけなのだ。
「そうだな、捨ててしまった」
葉っぱ三枚で人を死に至らしめると言われていた猛毒。実際に私が持っていたものが、その冶葛であったかどうかは分からない。薬籠ごとその薬を売り渡した男だって、それが本当に冶葛であるのか、使って試したわけではなかったからだ。
「後悔なさっている?」
その毒を使わなかったことを、後悔しているのかと問うたのだろうか。使わずに、捨ててしまったことを? それならば答えはイエスだ。
「……その390gはまだ残っているのだろうか」
直接には答えを返さない私を、店主はどう思っただろうか。どう思ったとしても、店主はそのにこやかな笑顔を崩さずに答えた。
「いいえ、50年前に日本列島を襲った大地震で、正倉院は倒壊しました。そしてその時、中に納められていた宝物の内に、冶葛はなかったのです。塵ほどもね」
「すべて使われてしまった、か」
私がそうしようとしていたように、人知れず。
「えぇ、恐らくは。ですが、ご希望でしたらお直しいたしましょう」
何気なく添えられた店主の言葉に、私は絶句した。
「まさかそんな……」
できるはずがない、と私は喘いだ。けれど店主は微笑み顔を崩さない。そんなところも、表情を変えることのできない人形のようだった。
「それが壊れた薬籠の一部であれば、僕には直せるでしょう」
それが壊れた薬籠の一部であると私が言えば、直せるはずだと店主は言うのだ。無を有にする。そんなこと、現代の発達しきった科学の力でも、出来ることではないはずだが――。
「…………そうだな、君にならできるのかもしれない」
今の私と話し、私が詳しい説明をしないうちに探していた品を持ってくることのできる彼ならば。
「お直しいたしますか?」
その言葉は正直私の心を強く揺さぶった。けれど手の中に戻った薬籠の冷たさが、揺さぶられた私の心を落ち着かせてくれた。
「……いや、良い。このヤクロウさえ戻ってくれば、中身はもう必要ない」
もし店主が、私の憎んだ男を蘇らせることができると言ったなら、私は確かに中身ごと直して欲しいと懇願したかもしれない。けれど手にした薬籠が、それを思いとどまらせた。無を有にすることの出来る店主だ。死者を蘇らせることもできるのかもしれない。だがそんなことをさせてくれるな、と店主に直された薬籠が言っているように、私には思えた。
「そうですね。何にも寿命というものがありますから」
「……人にも……」
だからあの男は私よりも先に死んだのだ。私が殺す前に、私が思い描いていたよりもずっと平穏な死に方で。
「えぇ、人の想いにも」
そして私の憎しみは、死者に対してまで長く続くことはなく、あの男以外に拡大することもなかったのだ。私は男の死を知った日から十年経ってようやく、冶葛を海に捨て、その勢いで薬籠を手放した。
「それは幸いなことなのだろうな。身を焦がし、脳に焼き付いて消えないと思ったほどの憎しみも、時が消してしまう」
私はすっかり冷めてしまった珈琲を弄びながら呟いた。店主はそれを聞きとめて、静かな口調で問いかける。
「それを悲しいと思っていらっしゃるのですか?」
「悲しい? そうだな、惜しいという気持ちの方が正しいように思うが。それはやはり、最初の憎しみとは違うものになっているのだろう。だから……私はあれを捨てたのだ」
そして今はこの薬籠だけを、また手に入れた。後悔しているかと問われれば、答えはイエスだ。けれど、未練はない。惜しいと思うのは冶葛を捨てたことに対するものではなく、あれほどまでに人を憎むという強烈な感情を失ってしまったことに対するものだ。
だがその感情を失ってこそ、私が思い出したことがある。それは確かに憎しみとは無縁の未練だった。今はこの手に戻ってきた薬籠。高ぶった感情だけを拠り所にしていた時には、これは単なる道具だったけれど、その感情が薄れた今ではそれを手にすることの魅力を思わずにはいられなかった。
「手放した後で、私はこのヤクロウの美しさに気付いた。時を経て、金が薄れてもこの美しさは変わらない。それだけで、私は満足だ」
私は薬籠に通されていた萩色の紐を、自分の持っていた皮紐を解いて兎の根付に通した。精巧に作られた兎を動物が好きだった娘に見せてやれば、彼女はどんなに喜ぶだろう。妻はきっと、この薬籠の黒と銀と金の色合いにうっとりと溜息をつくだろう。そして私は、今度は毒ではなく、薫り高いハーブでも入れてこの薬籠を身につけよう。大国主のように他人に施すまでには至らないが、心癒されるに違いない。未来と呼ぶには不確か過ぎる世界のことを思い描いてなお楽しみだ、と顔を綻ばせた私に、店主はゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
店主である流華が頭を上げた時には、店内には一人の客も見当たらなかった。カウンターには口のつけられていない珈琲と、店主が手に乗せて持ってきた薬籠とは別の物が置いてあった。流華はその印籠を手にとって眺めた。黒漆地に雪華模様の金銀蒔絵。四段で紐通しが左右についた細身の印籠だった。緒締は磨かれた水晶の玉で、根付は木彫りの台に雪華模様の螺鈿細工をあしらった洒落た作りだった。
「綺麗な品ですね。今回の報酬としては、いささか僕の方が得をしてしまったように思いますけれど……」
呟いて、流華は羅紗の布でその印籠を包み、自分の懐に入れた。それから口のつけられることのなかった珈琲を片付け始めたのだった。
参考文献
1. 鳥越泰義:正倉院薬物の世界―日本の薬の源流を探る.2005,10,11.初版第1刷.平凡社,東京.pp155-166(第二章 5 正倉院「毒物」を主に)
参考URL
1. 宮内庁:正倉院ホームページ:http://shosoin.kunaicho.go.jp/treasure/shousouin
(宝物検索からキーワード:冶葛で検索をすると、烏薬之属と冶葛壷が検索されます。画像で実際の宝物を見ることができます)